和庖丁の歴史

はじめに包丁の名前の由来についてお話します。

包丁という名前は、本来は「庖丁」と書いておりました。

「庖」は「くりや」即ち調理場の意味で、「丁」は「男」だから、庖丁とはくりやの男、 つまり板前さんの事です。

調理人なら誰でも庖丁かと言うとさにあらず、「庖丁」とは中国の古典(戦国時代の思想書)【荘子】に出てくる、当時の王に仕えた伝説的名調理人の固有名詞とされています。

2300年ほど昔の話です。

刀さばきの名人だった「庖丁」さんの愛用した刀だから「庖丁刀」と呼び、この庖丁刀を省略して単に庖丁と呼ばれるようになったと辞書には書いてあります。

しかし中国では、現在でも日本の菜切りに相当するタイプの庖丁を「菓刀」、日本で中華庖丁と呼ばれる タイプを菜刀と呼び、庖丁とは呼ばないようです。

してみると、どうやら庖丁を定義すれば「料理に使う刃物を呼ぶ日本独特の名称」と言う事になるようです。
『日本山海名物図鑑』宝暦4年(1754)刊にも庖丁の名前の由来が以下のように記されています。
 
荘子いはく庖丁能く牛を解く、庖丁はもと料理人の名なり。
その人つかひたる刃物なればとてつゐに庖丁を刃物の名となせり。
むかし何人かさかしくもろこしの故事を名付けそめけん。
今は俗に返してその名ひろまれり。
と「堺庖丁」の項に記されている。

※刀剣以外の庖丁や大工道具などの古い刃物は、道具の運命として、使われ、研ぎ減らされて なくなってしまう。
従って現物の遺品は極めて少なく、昔の絵巻物や浮世絵など絵画に頼らざるを得ません。従ってその構造や材質については推定するほかないことをお断りします。

日本刀型

最古の庖丁の遺品が現存するのは、奈良の正倉院である。名前は庖丁だが総長38cmと41cmで、つばのない日本刀に似た形状のものです。<写真1>
 
<写真1>正倉院御物にある昔の日本刀型の庖丁(1250年程前の庖丁)
 

全鋼製(正倉院展目録資料では鉄製と記されている)の片刃。
この日本刀型庖丁は徳川初期に至るまでおよそ900年の間、主に魚用として使い続けられた。


鎌倉時代、正安元年(1299年)完成の「一遍上人絵伝」や14世紀末の「慕帰絵詞(ぼきえことば)」や 「松崎天神縁起」に日本刀型庖丁が登場する。


室町時代、16世紀中ごろの「酒飯論」に出てくる庖丁は野菜専用らしく、先はまるく腹が張り出した形である。
元禄時代の刻み肴師庖丁(幅広庖丁に似た)の先駆のようだ。


徳川初期、17世紀はじめ頃と思われる「相応院屏風遊楽図」に日本刀型庖丁が描かれており、1650年代の「川口遊里図屏風」に日本刀型庖丁が描かれているのを最後に、元禄以後はアゴ付の式庖丁型にとって代られる。

式庖丁型庖丁(幅広庖丁も含む)

徳川の元禄・正徳時代の「人倫訓蒙図彙」や「和漢三才図会」に描かれている庖丁は式庖丁型が中心で、写楽の絵などでもわかるように、この式庖丁型が幕末近くまでの約200年間使い続けられた。<写真2>

<写真2>江戸時代の貞亨・元禄年間に作られた式庖丁型の庖丁と幅広庖丁。
(1680年~1710年頃に製作された庖丁)昔の日本刀型庖丁と現在の和庖丁の中間型。

現在の和庖丁

 
徳川末期の文化・文政年間の頃に現在使われている、菜切・薄刃・出刃・蛸引が登場。
嘉永・安政年間の頃に柳刃・江戸型うなぎ裂きが登場し、今に至っている。<写真3>

<写真3>現在使われている代表的和庖丁は江戸時代の文化・文政年間と
嘉永・安政年間(1800年~1860年くらい)に形が定まったものと思われます。